善の研究:第三編 善:第十二章 善行為の目的(善の内容)
人格その者を目的とする善行為を説明するについて、先ず善行為とは如何なる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これより如何なる目的をもった行為であるかを論じて見よう。善行為というのも単に意識内面の事にあらず、この事実界に或客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明あきらかにせねばならぬ。前に論じたのはいわば善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。
意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、先ず我々の個人において実現せられる。我々の意識の根柢には分析のできない個人性というものがある。意識活動は凡すべて皆個人性の発動である。各人の知識、感情、意志は尽ことごとくその人に特有なる性質を具えている。意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、挙動の上にもこの個人性が現われている。肖像画の現わそうとするのは実にこの個人性である。この個人性は、人がこの世に生れると共に活動を始め死に至るまで種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなすのである。科学者はこれを脳の素質に帰するであろうが、余は屡々しばしばいったように実在の無限なる統一力の発現であると考える。それで我々は先ずこの個人性の実現ということを目的とせねばならぬ。即ちこれが最も直接なる善である。健康とか知識とかいうものは固もとより尚とうとぶべき者である。しかし健康、知識其者そのものが善ではない。我々は単にこれにて満足はできぬ。個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何いかんに関せず誰にでもできることである。いかなる人間でも皆各おのおのその顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。而しかしてこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。しかし余は個人の善ということは最も大切なるもので、凡て他の善の基礎となるであろうと思う。真に偉人とはその事業の偉大なるが為に偉大なるのではなく、強大なる個人性を発揮した為である。高い処に登って呼べばその声は遠い処に達するであろうが、そは声が大きいのではない、立つ処が高いからである。余は自己の本分を忘れ徒いたずらに他の為に奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。
しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我儘わがままということである。個人主義はこれと正反対である。各人が自己の物質欲を恣ほしいままにするという事はかえって個人性を没することになる。豕ぶたが幾匹いてもその間に個人性はない。また人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ。
個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセンのブラントの如き者が個人的道徳の理想である。これに反し意志の薄弱と虚栄心とは最も嫌うべき悪である(共に自重の念を失うより起るのである)。また個人に対し最大なる罪を犯したる者は失望の極自殺する者である。
右にいったように真正の個人主義は決して非難すべき者でない、また社会と衝突すべき者でもない。しかしいわゆる各人の個人性という者は各独立で互に無関係なる実在であろうか。或はまた我々個人の本には社会的自己なる者があって、我々の個人はその発現であろうか。もし前者ならば個人的善が我々の最上の善でなければならぬ。もし後者ならば我々には一層大なる社会の善があるといわねばならぬ。余はアリストテレースがその政治学の始に、人は社会的動物であるといったのは動かすべからざる真理であると思う。今日の生理学上から考えて見ると我々の肉体が已すでに個人的の者ではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫と共に同一細胞の分裂に由りて生じた者である。生物の全種属を通じて同一の生物と見ることができる。生物学者は今日生物は死せずといっている。意識生活について見てもその通である。人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会的意識なる者がある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等は凡てこの社会的意識の現象である。我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成せられた者で、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味も凡て社会的意義をもっている。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれが為である)。いわゆる個人の特性という者はこの社会的意識なる基礎の上に現われ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできぬ。かえって社会的意識の深大なる意義を発揮した人である(キリストの猶太教ユダヤきょうに対する関係がその一例である)。真に社会的意識と何らの関係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ。
右の如き事実は誰も拒むことはできぬが、さてこの共同的意識なる者が個人的意識と同一の意味において存在する者で、一の人格と見ることができるか否かに至っては種々の異論がある。ヘッフディングなどは統一的意識の実在を否定し、「森は木の集合であってこれを分わかてば森なる者がない、社会も個人の集合で個人の外に社会という独立なる存在はない」といっている(H※(ダイエレシス付きO小文字)ffding, Ethik, S. 157)。しかし分析した上で統一が実在せぬから統一がないとはいわれぬ。個人の意識でもこれを分析すれば別に統一的自己という者は見出されない。しかし統一の上に一つの特色があって、種々の現象はこの統一に由って成立する者と見做みなさねばならぬから、一つの生きた実在と看做みなすのである。社会的意識も同一の理由に由って一つの生きた実在と見ることができる。社会的意識にも個人的意識と同じように中心もある連絡もある立派に一の体系である。ただ個人的意識には肉体という一つの基礎がある。これは社会的意識と異なる点であるが、脳という者も決して単純なる物体でない、細胞の集合である。社会が個人という細胞に由って成っていると違う所はない。
かく社会的意識なる者があって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分は凡て社会的である。もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、殆ど何物も残らない位である。我々の生命欲も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来我々の自己の中心は個体の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるに従うて、自己の要求が社会的となってくるのである。
これより少しく社会的善の階級を述べよう。社会的意識に種々の階級がある。そのうち最小であって、直接なる者は家族である、家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級といわねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は、単に子孫を遺のこすというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的をもっている。プラトーの『シムポジューム』の中に、元は男女が一体であったのが、神に由って分割されたので、今に及んで男女が相慕うのであるという話がある。これはよほど面白い考である。人類という典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。オットー・ヴァイニンゲルが「人間は肉体においても精神においても男性的要素と女性的要素との結合より成った者である、両性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となる為である」といっている。男子の性格が人類の完全なる典型でないように、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女の両性が相補うて完全なる人格の発展ができるのである。
しかし我々の社会的意識の発達は家族というような小団体の中にかぎられたものではない。我々の精神的並に物質的生活は凡てそれぞれの社会的団体において発達することができるのである。家族に次いで我々の意識活動の全体を統一し、一人格の発現とも看做すべき者は国家である。国家の目的については色々の説がある。或人は国家の本体を主権の威力に置き、その目的は単に外は敵をふせぎ内は国民相互の間の生命財産を保護するにあると考えている(ショーペンハウエル、テーン、ホッブスなどはこれに属する)。また或人は国家の本体を個人の上に置き、その目的は単に個人の人格発展の調和にあると考えている(ルソーなどの説である)。しかし国家の真正なる目的は第一の論者のいうような物質的でまた消極的なものでなく、また第二の論者のいうように個人の人格が国家の基礎でもない。我々の個人はかえって一社会の細胞として発達し来ったものである。国家の本体は我々の精神の根柢である共同的意識の発現である。我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができるのである。国家は統一した一の人格であって、国家の制度法律はかくの如き共同意識の意志の発現である(この説は古代ではプラトー、アリストテレース、近代ではヘーゲルの説である)。我々が国家の為に尽すのは偉大なる人格の発展完成の為である。また国家が人を罰するのは復讐ふくしゅうの為でもなく、また社会安寧の為でもない、人格に犯すべからざる威厳がある為である。
国家は今日の処では統一した共同的意識の最も偉大なる発現であるが、我々の人格的発現はここに止まることはできない、なお一層大なる者を要求する。それは即ち人類を打して一団とした人類的社会の団結である。此かくの如き理想は已にパウロの基督キリスト教においてまたストイック学派において現われている。しかしこの理想は容易に実現はできぬ。今日はなお武装的平和の時代である。
遠き歴史の初から人類発達の跡をたどって見ると、国家というものは人類最終の目的ではない。人類の発展には一貫の意味目的があって、国家は各その一部の使命を充す為に興亡盛衰する者であるらしい(万国史はヘーゲルのいわゆる世界的精神の発展である)。しかし真正の世界主義というは各国家が無くなるという意味ではない。各国家が益々強固となって各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するの意味である。